はじめに
1948年4月3日、韓国の済州島で発生した武装蜂起とその後の軍警による大規模な弾圧事件は、「済州島4・3事件」として知られています。
この事件では、推定2万5千人から3万人もの民間人が犠牲となり、島の人口は激減。戦後東アジアの冷戦構造の中で長く語られることのなかった歴史的悲劇です。
事件の背景と経緯
そこの議員ども 済州島四・三事件は良いのか?
— 中道 積 (@chudotsu) February 10, 2025
保導連盟事件は? まだあるぞ… pic.twitter.com/TAHkWe6iIn
解放後の混乱期
1945年の日本の敗戦により朝鮮半島は解放されましたが、北緯38度線を境に南北が分断され、アメリカとソ連による分割統治が始まりました。
この中で、南部には親米の李承晩政権が、北部には金日成の労働党政権が、それぞれ米ソの後ろ盾を得て権力基盤を固めていきました。
蜂起の契機
1947年3月1日、済州市内で南北統一を求めるデモ隊に警察が発砲し、6名の島民が死亡する事件が発生。
これを契機に島民の不満が高まり、全島規模のゼネストへと発展しました。
これに対し、在韓米軍政庁は右翼青年団体「西北青年会」を島に送り込み、島民への弾圧を強化していきました。
虐殺の実態
武力弾圧と村落の破壊
1948年4月3日の武装蜂起後、政府軍や警察による大規模な弾圧作戦が展開されました。
特に1948年10月以降、海岸線から5キロ以上の地域に立ち入る者を「暴徒」とみなして無条件射殺するという布告が出され、山間部の村々は焼き払われました。
驚くべきことに、済州島の村々の70%(山の麓の村々では95%)が焼失したとされています。
犠牲者の規模
事件による犠牲者数は、韓国政府の公式発表でも2万5千人から3万人と推定されています。
一説では、その後の弾圧も含めると、当時の済州島民の5人に1人にあたる6万人が犠牲になったともいわれています。
また、多くの島民が恐怖から日本へ逃れ、島の人口は約28万人から一時は3万人弱にまで激減しました。
事件の影響と現代的意義
在日コリアンとの関係
この事件は、現在の在日コリアン社会の形成にも大きな影響を与えています。
弾圧を逃れて日本へ密入国した島民は多く、特に大阪市などに済州島民コミュニティを形成しました。
現在の在日コリアンの中でも、済州島出身者とその子孫は大きな割合を占めています。
真相究明への道のり
長年、この事件の真相は韓国の反共体制下で語ることが困難でした。
しかし、2000年に「済州4・3事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」が制定され、ようやく公式な真相究明が始まりました。
この取り組みは、過去の歴史と向き合い、和解と平和を目指す重要な一歩となっています。
済州島4・3事件とは:まとめ
済州島4・3事件は、冷戦期の東アジアにおける悲劇的な歴史の一つです。
この事件が私たちに問いかけるのは、平和と人権の大切さ、そして歴史の真実を明らかにすることの重要性です。
今なお続く遺族の方々の痛みに向き合い、この歴史を次世代に伝えていくことが、私たちの責務といえるでしょう。
最後までお読み頂きましてありがとうございました。(^^♪















